よをこめてとりのそらねははかるとも / 清少納言

2字決まり
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百人一首

【原 文】夜をこめて鳥のそら音ははかるともよをこめてとりのそらねははかるとも  よに逢坂の関は許さじよにあふさかのせきはゆるさし

【上の句】夜をこめて鳥のそら音ははかるとも(よをこめてとりのそらねははかるとも)

【下の句】よに逢坂の関は許さじ(よにあふさかのせきはゆるさし)

【決まり字】2字決まり「よを」

超現代語訳

コケコッコー!って鳴いても、ワタシは騙されませんわよ!

歌のポイント

  • 枕草子を書いた清少納言が詠んだ歌
  • 藤原行成へジョークを込めた知性溢れる大人の歌
  • 恋の歌っぽいけど、そうじゃないとっても奥深い歌
  • 百人一首を語るなら、絶対に覚えておきたい歌

歌の情景

この歌は、とっても奥深い歌で素直に詠んでしまうと清少納言が藤原行成(ふじわらのゆきなり)を拒絶しているような内容ですが、二人のジョークを詠みあげた歌です。
清少納言と藤原行成が夜遅くまでおしゃべりを楽しんでいましたが、突然仕事を思い出した行成が帰ってしまいました。
すると、翌朝、行成からわざとらしいラブレターのように「もっとお話したかったけど、鶏が鳴いたから慌てて帰ってしまいました」と歌をプレゼントされました。
そのお返しに清少納言は、「それは函谷関(かんこくかん)の鶏ですか」と返事を出すと行成からさらに「いいえ、恋人と会う逢坂の関だよ」とさらにジョークを交えた歌を詠んできたのです。
ここで、詠んだのがこの「夜をこめて」です。私に鶏の鳴き声を真似して鳴いてみても、私の逢坂の関は通れませんよ。とさらなるジョークを交わしました。

函谷関とは中国の故事に登場する関所で、鶏が鳴かないと通れない場所です。命を狙われ逃げた孟嘗君(もうしょうくん)が、函谷関を通れず困り果てていました。と、いうのも朝になって一番鶏が鳴かないと通れないシステムだったのです。そこで、孟嘗君は、鶏の鳴き真似をして無事通り抜けたとうエピソードが背景にあり、当時この話を互いが認識しているという教養の高さを物語っています。

語意

【夜をこめて】夜が明けないうちに
【鳥のそらね】鶏の鳴きまね
【はかるとも】だましても
【よに】絶対に
【逢坂の関】夜、男女が会うこと。近江(現在の滋賀県)の国と山城(現在の京都府)の国にあった関所 「会う」と掛詞
【ゆるさじ】許しません

歌の分類

【歌集】後拾遺和歌集
【歌仙】-
【テーマ】雑の歌
【50音】よ音

歌を詠んだ人物

【作者】清少納言(せいしょうなごん)
【性別】女性歌人
【職業】女房(現代職業:キャリアウーマン)
【生年】966年(康保3年)頃
【享年】1025年(万寿2年)頃

清少納言(せいしょうなごん)は、清原諾子(きよはらのなぎこ)の事で、平安時代中期に大活躍した人物です。36番の歌人・清原深養父(きよはらのふかやぶ)のひ孫で、42番の歌人・清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘にあたります。

清少納言の「清」は「清原」から、少納言は、仕事をするうえでの役職名です。親族の誰かに少納言がいたことから清少納言と呼ばれるようになりました。漢学者の家庭に生まれたことで、小さいころから熱心な文学少女として成長します。最初の夫は現在の東北地方の役人をしていた陸奥守・橘則光(たちばなののりみつ)ですが、相性が悪く離婚しました。

その後、一条天皇の奥さんである藤原定子(ふじわらのていし)の元で働きだし、この頃から定子を中心にした皇室での出来事を物語にした「枕草子」を書き始めました。定子が24歳の若さでこの世を去ると、清少納言も仕事を辞めて本格的に「枕草子」を書き上げます。

そして、藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚し上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ)を生みました。勅撰集には15首収められています。